「練習、お願いします!」
何よりも、まず初めは大きな声で挨拶からだ。
おれは今ボクシングをやっている。
更衣室の近くの壁に貼られている出席表に印を押し、着替える。
着替えながら、ジムに来るまで考えていた様々なことは一気に吹き飛んで、拳闘一色のモードに切り替わる。
「勝つか、負けるか。相手にじゃない。自分に対して・・・・」
他の練習生がどう思って練習を始めるのか聞いたことはないけれど、おれに至ってはそうだ。
ゆっくりとバンテージを手に巻き、巻き終えれば、ジム内に流れているヒップホップ音楽のリズムに乗りながら10分間の柔軟体操をする。
汗と血の匂いをかき消すかのような、「ファブリーズ」の匂いが床から漂う。
パーン! パーン!
グローブの皮とミットやサンドバックの皮が激しく当たる乾いた音がジム内に響き渡る中、周りを見ると、みんなすごく男の顔になっている。
おれはこの瞬間が好きだ。
一匹狼。
これから始まることは生半可なことじゃない。
顔がかっこいいとか、金を持っているとか、頭がえらいとか、仕事ができるとか、家庭環境がいいとか、そんなことは一切関係しない。
自分に強く、ボクシングに強い奴だけが認められる時間。
身体がほぐれたところで、壁一面が鏡の前へ行ってシャドーボクシングをする。
ワン、ツゥー、ワン、ツゥー。小刻みに、素早くステップを踏んで、仮想の相手を目の前にしながら、懐に踏み込んで、左、右、左。また、離れて、身体を揺らしながら、踏み込んで左ジャブを打つふりをして、ちょっと下がって、右ストレート、左アッパー・・・・。
シャドーボクシングを3Rこなしたところで、ミット打ち。
リングの上に上って、トレーナーの構えるミットにパンチを打ち込んでいく。
まず、左のジャブから始まり、ワン、ツゥー。ワン、ツゥー、スリー。ワン、ツゥー、左フック2連打に、右ストレート。左、左、右・・・・。
最初の頃はこのミット打ちで、1Rの途中で息が上がり切っていた。
高校生の頃、毎日のように部活に励んでいたおれは、自分では持久力はあるほうだと思っていたが、そんなものはいとも簡単に吹っ飛んだ。
肺が苦しくなる。ガードしているだけの腕が異常に重く感じる。足が思ったように動かなくなってくる。
たかだか3分間が、5分にも10分にも感じられるのだ。
おそらくそれは、おれが自分に負けているからだろう。
「早く終わってくれ、早く休みたい」
何事にも言えることだと思うが、そんな弱い思いは、苦しさを必要以上に増加させるのだと思う。
3Rのミット打ちを終え、次は天井から鎖でつながれているサンドバックを叩く。
自分の距離を保ちながら、ミット打ちでトレーナーに言われたことを反復練習し続ける。
おれはサンドバックを5R叩くようにしている。
している、というか、いつの間にか、5R以上叩いているのだ。
「あしたのために、あしたのために・・・・」
漫画「あしたのジョー」じゃないけど、ほんとにそう思って叩いている。
ミット打ちで吹き出した汗が止まらない。叩いているサンドバックの周りに汗の海が出来そうなくらいに身体から汗が滴り落ちている。
3分間やった後の、一分間の休憩で、鏡の前へ行くと、まるでシャワーを浴びたかのように頭から足のつま先まで全身が汗でぐちゃぐちゃになっている。
昨日はこの後、スパーリングがあった。
相手は高校生と3R。
「おそらく、いや、間違いなくボコボコにされるだろう」
おれは思った。
なぜなら相手は高校生でも、おれがジム内でこれまで見た限り、一番強いと思っていた選手だったからだ。ミット打ちでも目が覚めるような、気持ちいい程の乾いた一番いい音をいつもジム内に響かせている。
おれが彼を見ていてずっと思っているのは、「こういう選手が腰にベルトを巻くのだろう」ということだった。
しかし、ビビってはいられない。
トレーナーに「やるか?」と言われ、おれは即答で「はい」とだけ答えた。
ふぅーっと息を思いっきり吐く。そして、少し鼻から空気を吸い、おれはリングの上に上がった。
トレーナーにヘッドギアをつけてもらい、思う以上に大きな、固いマウスピースを口にふくむ。
グローブはいつも練習で使っているのとは比べ物にならない重さの、16オンスのグローブをつけた。
おれの記憶が正しければ、16オンスのグローブは、マイク・タイソンやレノックス・ルイスなどの階級、ヘビー級の試合で使用する重さのグローブだ。
一番軽い階級でやっていこうと思っているおれにとっては、かなり重い。
カーン!
1R目の3分間が始まった。練習通りに足を動かし、左ジャブを出す。
自分の距離でなかった。まったく左のジャブが相手に届かない。
おれは単純に一歩踏み込んで当たる距離で左ジャブを打とうとした。
その時、
ドーン!
そんな衝撃だった。ヘッドギアの上から、しかも相手も16オンスのグローブをつけているのにも関わらず。
それから連打を浴びた。おれは防戦一方だった。
ジャブをもらい、右ストレート、アッパーに、フック。
おそらくアッパーはもらわなかったが、フックとストレートが異常にキク。
防戦一方のおれに、トレーナーから「もっと手出せ!」という声がかかる。おれにはその声がはっきりと聞こえた。
「アカン。もっと手出さな」
おれはジャブから右ストレートと手を出す。が、やっぱりまったく当たらない。
「遠い」
おれは思った。
そしてまた繰り返しであった。
遠いから、一歩踏み込んでジャブを打とうとする。
そしたら、ドーン!
また連打をもらう。
1Rが終わった。
口の中がよだれでいっぱいになっていた。マウスピースを噛んでいるから唾が出てくるのだ。
「練習したのにまったく意味がない。せっかく覚えたパンチが当たらない」
おれは絶望感に包まれた。
そうこうしている内に、時計を見れば、あと10秒。
やっている間の3分間は長く、休憩の1分が短い。
そう思う自分に、「おれは弱い」とまた思った。
2Rも同じような状況が続いた。打とうとすれば、連打がくる。おれは次第にどうすればいいのかわからなくなってきていた。そして、それ以上に、打とうとしたらボコボコにされる状況が戦意を喪失させようとしていた。
「恐い」
ボクシングをやっていて初めて感じたことだった。
そんな時にまたハッとさせてくれるトレーナーの声がかかる。
「もっと手出せ! 踏み込んで!!」
おれはもうどうにでもなれや、と思った。殴られても踏み込んでいかな当たらない。
だが、だからといって、がむしゃらにいったところで当たる程甘い世界じゃない。
強いボディーが入り、おれはうづいた。シャレにならん苦しさ・・・・。
昔、どこかで聞いた言葉を思い出した。
「ボディーは地獄の苦しみ」
間違いなかった。
泣きそうになるとか、そんなんじゃない。
力が一気に抜けるというか、「もう止めて・・・・」となるような苦しさ。
3Rもボコボコだった。おれにいいところは一切なかった。
ただ一つ、自分にとっての救いがあった。
ボコボコに打たれながらも、当たる距離で左ジャブを放ち、それが彼の頭の右をかすめたのだ。
当たらず空を切ったのだが、あれがスピードのある彼にパンチを当てることができる距離なのかもしれない、と思った。
ボコボコにされたシーンは、どんなパンチで打たれたか、細かい事は一切覚えていないが、あの左ジャブは今でも鮮明に思えている。
3Rのラスト30秒で、おれは彼の右ストレートを思いっきり受け、あわやスパーリングでダウン寸前というところまでやられた。これ以上ないというほどに「前へ、前へ」と自分に言い聞かせていたにも関わらず、膝がガクッとおれ、後ろへ下がってしまう。
死にものぐるいの、がむしゃらな戦意もぶっ飛んだ。
心の中が、幼い子供のように一気にシュンとなったのを思い出す。
カーン!
ただそれだけの合図で、リングで行っていた死にものぐるいの戦いは終わる。
汗だくの中、ヘッドギアを脱ぐ。
一気に見える世界が変る。
これは経験した者にしかわからないかもしれないが、何とも言えない心地よさに包まれる感じがする。ボコボコにされていたのに、だ。
「スパー、ありがとうございました!」
おれは大きな声で彼に言って、深く頭を下げた。
年齢は関係ない。彼の方が経験もあり、比べ物にならないほど強いのである。
そして、ボクシングはそれだけがものを言う世界である。
おれはボクシングのそういうところ、肩書きや頭の良さはまったく関係しないところが大好きなのである。
帰り、駅の便所の鏡で顔を見た。
3Rの最後に打たれた左目にはおもいっきりアザが出来ている。
「痛ててて・・・・」
だけど、おれはここ何年かで一番心地のいい日を過ごしたな、と思った。 |